解説:錦絵で“素人アイドル”が大ブレーク “推し活”ブームに喜多川歌麿も一役 「べらぼう」蔦重の時代の風俗ビジネス(後編)

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場した錦絵本「青楼美人合姿鏡」 (C)NHK
1 / 1
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場した錦絵本「青楼美人合姿鏡」 (C)NHK

 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマべらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)の10回「『青楼美人』の見る夢は」(3月9日放送)では、横浜さん演じる蔦重が、身請けされた瀬川(小芝風花さん)の“最後の花魁道中”に合わせて、人気絵師に瀬川や花魁たちの普段の姿を描いてもらい、豪華な錦絵本を完成させた。

あなたにオススメ

 この錦絵本は「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)というタイトルで全3巻。花魁たちが四季折々の風物とともに描かれている。第1巻の最初のページには松葉屋の4人の花魁が登場。文机に向かい筆を手にした花魁と他の2人が会話し、少し離れて瀬川は本を開いて思案気な様子だ。

 ◇蔦重顔負けのプロモーション 幕府は“推し活”規制強化へ

 「青楼美人合姿鏡」が世に出る8年ほど前、“素人アイドル”が錦絵で大ブレークした。絵師の鈴木春信が、谷中の天王寺(東京都台東区)に近い笠森稲荷境内の茶屋・鍵屋で働いていた「お仙」という18歳の女性をモデルに描いた美人画が売れに売れた。庶民には高嶺の花だった花魁と違って、お仙は気軽に会いに行ける。谷中はお仙見たさの男たちで大にぎわいした。「水茶屋の 娘の顔で くだす腹」という川柳があるから、お仙に顔を覚えてもらおうと、お茶を何杯も注文した客も多かったのだろう。

 人形、手ぬぐい、すごろくなど“お仙キャラクターグッズ”も販売された。芝居や浄瑠璃、黄表紙の題材にもなり、蔦重顔負けのプロモーションが展開された。まさに推し活の元祖だ。だが、お仙が茶屋で愛嬌を振りまいていたのはわずか2年ほどだった。江戸城に勤めていた旗本に嫁いだのだ。茶屋の娘が旗本に嫁入りするのは異例なことだが、“人気アイドル”にとって身分の差なんて関係なかったのである。

 お仙人気にあやかって、看板娘となる美女を雇う茶屋が増え、茶の味よりも看板娘で商売を競った。茶代の相場は6文(現在の価値で約120円)だったが、看板娘がいる茶屋はその10倍もの茶代を取った。こんな川柳がある。「愛想の いいは茶代を 置かぬうち」。チップを弾まなければ、看板娘は仏頂面になったようだ。

 看板娘の錦絵も次々と登場。蔦重とタッグを組んだ喜多川歌麿も代表作「当時三美人」(寛政の三美人)で吉原の芸者と並んで浅草、両国の茶屋の看板娘を描いた。しかし一方で、いかがわしいサービスをする茶屋も出てきた。このため幕府は、茶屋で働ける女性を13歳以下もしくは40歳以上と定め、錦絵に看板娘の名前を書くのを禁じて推し活ができないようにするなど、茶屋アイドルブームの沈静化を図った。

 ◇僧侶は変装して遊里に入り浸り コスプレ、フェチ商法も

 お仙が働いてた鍵屋のすぐ近くに「いろは茶屋」という遊里があった。推し活と遊里通いがセットで楽しめたことも、谷中を人気スポットにした。いろは茶屋は1703年、谷中の天王寺門前に設けられた茶屋街。当初は参詣客に茶を出していただけだが、やがて遊里になった。当時の川柳に「武士はいや 町人好かぬ いろは茶屋」というのがある。僧侶がお得意さんだったのだ。

 僧侶は女性と関係を持つと処罰されたため、変装して遊里に通った。江戸には髪を剃って頭を丸めた町医者が多く、羽織を着て往診していた。僧侶も羽織を着て遊里に入り浸った。だが、町奉行所がうわさを聞きつけ、1796年8月、いろは茶屋など主要な岡場所の一斉摘発に乗り出した。七十数人の僧侶が検挙され、日本橋に3日間、さらし者になった。

 江戸の風俗ビジネスの裾野は広かった。尼の衣装を着て頭を丸めた女性が客にサービスする“コスプレ”も流行する。比丘尼(びくに)と呼ばれ、江戸に78カ所もあり、赤坂が最もにぎわっていた。忠臣蔵の大石内蔵助も赤坂の比丘尼にハマり、頻繁に通ったと伝えられている。弓矢で的を射る娯楽施設(楊弓場)も人気スポットだった。ここで働く矢場女(やばおんな)は、客が放った矢を回収するのが本来の仕事だが、客に向けて尻をつき出して作業し、尻に向けて矢を放つように仕向け、男を誘惑した。

 江戸文化・風俗の研究家、三田村鳶魚(1870〜1952年)によると、筆屋の娘が男の客に筆を売る際、筆先をなめて売る店もあり、“なめ筆”と呼ばれた。筆を介して間接キスができるという趣向だ。下駄屋の女性が客に下駄を履かせる際、着物の裾からきわどい所を見せる“出し下駄”というのもあったようだ。こうしたフェチ心理をくすぐる商売も次々と生まれた。

 ◇ぼったくられた地方の武士 堪忍袋の緒が切れて

 うぶな男たちをターゲットにぼったくる岡場所もあった。麻布藪下(東京メトロ麻布十番駅周辺)の岡場所である。一帯は大名屋敷(江戸藩邸)が多い。参勤交代で江戸を往復する藩主の随行団として、単身赴任で来た多数の藩士が長くて1年間、藩邸で暮らす。彼らは暇さえあれば江戸観光に出かけた。世事に疎い地方武士を相手にしていたのが、麻布藪下の岡場所だ。

 江戸の遊里の評判を記した「岡場所考」は、麻布藪下を「評判が悪く、遊女も下品だ」とこきおろしている。強引な客引き、ぼったくり、しかもサービスが悪いことで悪評が立っていた。ぼったくられた地方武士たちも、怪しげな場所でカネを使い果たしたことがばれるのを怖れ、泣き寝入りしていた。だが、さすがに堪忍袋の緒が切れた。久留米藩(福岡県)の藩邸から50人以上の武士たちが徒党を組んで押しかけ、遊女屋の建物を破壊した。町奉行所の裁定で麻布藪下の遊里は廃業になった。1839年4月のことである。

 吉原の遊女は約3000人いたが、岡場所なども含めると、人口100万人の江戸で1万人を超えていたと推計されている。(文・小松健一)

 ◇プロフィル

 小松健一(こまつ・けんいち) 1958年大阪市生まれ。1983年毎日新聞社入社。大阪・東京社会部で事件、行政などを担当。その後、バンコク支局長、夕刊編集部長、北米総局長、編集委員を歴任し、2022年退社。編集委員当時、時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)の世界と、史実の長谷川平蔵や江戸の社会、風俗を重ね合わせた連載記事「鬼平を歩く」を1年以上にわたり執筆。それをベースに「『鬼平犯科帳』から見える東京21世紀〜古地図片手に記者が行く」(CCCメディアハウス)を出版した。現在は読売・日本テレビ文化センターで鬼平犯科帳から江戸を学ぶ講座の講師を務めている。

テレビ 最新記事