高畑勲監督:ジブリ美術館でお別れの会 “盟友”宮崎駿監督のお別れのあいさつ全文(前編)

涙ながらに高畑勲監督の思い出を語る宮崎駿監督
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涙ながらに高畑勲監督の思い出を語る宮崎駿監督

 今年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなったアニメーション映画監督の高畑勲さんのお別れの会が15日、三鷹の森ジブリ美術館(東京都三鷹市)で営まれ、長年行動を共にしてきた“盟友”宮崎駿監督が別れの言葉を述べた。

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 ◇宮崎監督のあいさつは以下の通り。

 パクさんというあだ名の言われは、定かではありませんがものすごく朝が苦手な男でして。東映動画に勤め始めたときもギリギリに駆け込むというのが毎日でした。手にしたパンを、タイムカードを押してからパクパクと食べて、水道の蛇口から水を飲んでいたということからパクになったといううわさです。

 追悼文という形ではありませんが、書いてきたものを読ませていただきます。

 パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなと思う。9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友だちなら高畑監督のたばこをやめさせなさい」。真剣で怖い声だった。主治医のあまりの迫力に僕と鈴木(敏夫)さんは。パクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて初めてのことだった。「たばこをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」、これは鈴木さん。弁解や反論が怒涛(どとう)のように出てくると思ったのに、「ありがとうございます。やめます」ときっぱり言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはたばこをやめてしまった。僕はわざとパクさんのそばにたばこを吸いに行った。「よいにおいだと思うよ。でも、全然吸いたくなくなった」と、彼のほうが役者が上だった。やっぱり95歳まで生きる人なんだなって本当に思いました。

 1963年、パクさんが27歳、僕が22歳のとき、僕らは初めて出会いました。その初めて、言葉を交わしたことを僕は今でも覚えています。練馬行きのバスを僕は待っていた。雨上がりで水たまりが残る通りを一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんの所に行くそうですね」。穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲と出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なぜはっきり覚えているのだろう。あのパクさんの顔をありありと思い出す。

 瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主宰者で、公演の役目を僕は負わされていた。次にパクさんと出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまったときだった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。緊張で吐き気に苦しむほどの日々が始まった。それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、パクさんと夢中で語り明かした。ありとあらゆること。あまたの作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く。誇っている仕事をしたかった……。 (後編に続く)

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